あれから10年―歴史資料レスキューからの「3.11」の現在と今後

石巻市北上町、高台に移転した集落の公園から北上川河口を臨む(2017年10月27日撮影)

 2011年3月11日、午後2時46分。日本の観測史上最大の地震と、それによる津波が東日本を襲いました。あれから10年が経ちました。改めて、犠牲になられた方のご冥福をお祈り申し上げます。

 私がNPO法人宮城歴史資料保全ネットワーク(宮城資料ネット)の一員として関わっている、被災した歴史資料の救済・保全活動ですが、救済した個人所蔵の史料83件のうち、所蔵者のお手元に返却出来たのは、25件。全体の約3割ほどです。

 津波で被災した古文書等の応急処置は、善意の無償ボランティアによって、今もなお続いています。2011年5月から2020年3月までの参加者で、集計できている人数は、現時点で8804人です。これだけの人数をもってしても、完了できていません。水洗などによって、劣化や腐敗が進行しない安定した状態に持ち込むことまでは、市民ボランティアでも可能です。それを、「地域の歴史を語る史料」として再生するための情報の付与や整理のためには、古文書や歴史資料を読み解き、内容をまとめるという専門的知識がどうしても必要となります。その人数は、圧倒的に不足しています。大きな課題だといえるでしょう。

 一方で、活動の長期化は、特に継続的に参加するボランティアにとっては、日常的に古文書に触れ続ける機会ともなりました。その中から古文書解読サークルが生まれ、古文書解読史料集を出版するまでに至っています。もし効率を追及して、作業が短期間で終わっていたなら、あるいは生まれなかった動きなのかも知れません。歴史資料との関わりが持続されること自体が持つ可能性を感じるところです。

 ところで、昨年12月30日の「朝日新聞」宮城版の連載記事の中で、宮城県内の被災した自治体の文化財担当者の談話を読む機会がありました。被災した古文書の保存を呼びかける宮城資料ネットからの呼びかけファクスを受けて、避難所の掲示板に貼ろうとしたところ、安否やライフライン復旧に関する多数の掲示を見て、「場違いに感じて」、掲示を断念したというものでした。

 その自治体の名誉のために申し上げれば、担当者の方は、2011年3月11日以前から、古文書の保存に熱心に取り組んでおられました。それでも、巨大災害の被災直後の段階では、人命が最優先であることは言うまでもありません。一方で、歴史資料や文化財に関わる人たちが、自ら「文化財は後回し」だと述べてしまう風潮は、今でも大勢を占めているようです。私自身は、2011年から、活動の「優先順位」と、「意義の軽重」は分けて考えなければならない、と主張し続けています。しかし、それはあくまで歴史資料に関わる当事者としての立場からの発言に過ぎず、歴史資料を災害から守る固有の意味を、客観的に示すことはできていませんでした。

 一方で、2017年から18年にかけて主催した石巻市での連続歴史講演会では、参加者アンケートの中に、「もう戻らないふるさとのことを誰かが覚えてくれる」とか、「講演を聴いて、親や同世代の人たちから聞いた過去の伝承を思い出した」といった趣旨の証言が得られています。失われた故郷や、過去とのつながりを取り戻す。そのことには、災害支援としての固有の可能性を見いだせるのかも知れません。

 歴史資料レスキューについては、21世紀に入ってからの、国際機関における災害・紛争被災者への支援の基底として位置づけられている「心理社会的支援」の実践の一つとして評価する考え方が示されています。身近な歴史を改めて学ぶ、写真やアルバムなどで近い過去の記憶を想起する、さらには被災した歴史資料のレスキューなど、歴史資料を再生する過程に人々が関わることが、日常生活をいとなむ中での個人や社会の災害からの回復を促す、というものです。そのことについては、今後さらに検討される必要があるでしょうが、少なくとも災害時に歴史資料を守る活動をすることを卑下する必要は、もはやない、ということは強調しておきたいと思います。

 今後の課題です。

 一つは、東日本大震災を歴史として残す事です。

 先の戦争から75年以上が経ちますが、戦時中の手紙や日記、手記が今でも発見され続けています。あるいは、やっと当時の心境を語り出している人たちがいます。それだけの時間が、自らの体験を歴史として社会と共有しようと決意するまでにかかる、ということかもしれません。

 戦災と自然災害の違いはあれ、東日本大震災でも同じことが起こるでしょう。「教訓」にとどまらない、自然災害にともなって起こった様々な出来事、その中で生きた人々の多様な姿を将来の人が知ることのできるように、今から記録の保全に努める必要があります。

 二つは、歴史の再生です。

 東北の被災地にとって、「災害の教訓」を発信すること、またそれを求められることは、宿命だといえます。現に、被災各地でそのような取り組みがなされています。

 一方で、「教訓」の中身を他者に決められてしまうのならば、かつての東北が、東京への食糧や労働力の供給地として、さらにはエネルギーの供給地として位置付けられたような「教訓の供給地」としてりかねません。そのような歴史を繰り返して欲しくないと強く願います。

 とはいえ、特定の時代を過度に理想視して、現代につながる人々の歩みと、その結果として成立している地域社会のありようを批判するのも、フェアな態度とは言えないでしょう。

 危険な場所に集落が広がっていったのも、沼や湿地を干拓して水田にしたのも、道路や工場や住宅団地の建設のために自然に大きく手を加えたのも、原子力発電所ができたのも、不合理に見えようとも、それぞれ理由があり、人々の意志があってのことでした。それらのことをも含めて、歴史は明らかにされなければなりません。

石巻市北上町の「丸山地蔵」。
天明の飢饉の犠牲者供養のために建てられた
石仏は、10年前の津波で像の位置がずれた。
過去の災害と「3.11」の双方を伝える
遺構となった

 東北地方の歴史は、あの大災害の経験だけが全てではありません。固有の自然環境の中で育まれてきた歴史や生活があります。あの日の天変地異と、今に続く道のりは大きな出来事ではあります。しかし、それでも、あの経験は、歴史の流れから見れば「一部」なのです。時折は、故郷で繰り広げられた様々な歴史や記憶を思い出してほしいと思います。

 被災地の歴史を再生することが、災害支援としての大きな可能性を持つことが明らかになりつつあるいま、これからの10年、さらにその先も、歴史を通じて被災地に関わり続けることが、被災した地域で活動する研究者の使命だと考えています。

(この記事は、2021年3月8日に仙台国際センター展示棟で開催されたシンポジウム「東日本大震災から10年とこれから」(主催:東北大学災害科学国際研究所)での口頭発表に、加筆・修正を加えたものです。)

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