連載「災害と仙台 江戸時代・天保の古文書から」を終えて これからの課題

河北新報夕刊一面に、5回にわたって連載された特集記事「災害と仙台 江戸時代・天保の古文書から」の連載が終わりました。改めて河北新報ニュースサイトのURLを掲載します。なお、いずれもYahoo!ニュースにも転載されていますが、掲載期限の関係でリンク切れの場合はご容赦ください。

(1)地震と水害 立て続けに城下襲う 
https://kahoku.news/articles/20210301khn000022.html

(2)飢饉 人心すさみ疫病流行
https://kahoku.news/articles/20210302khn000028.html

(3)民の力 有力商人に支援要請
https://kahoku.news/articles/20210303khn000032.html

(4)藩が登用 救済策次々
https://kahoku.news/articles/20210304khn000027.html

(5完)将来へ記録どう残す
https://kahoku.news/articles/20210308khn000025.html

一連の内容は、これまでの私の研究(拙著『少年藩主と天保の危機』大崎八幡宮仙台・江戸学叢書 2017年、拙稿「中井源左衛門家文書に見る仙台の災害」など)や、昨年12月19日に仙台市歴史民俗資料館で行った講演に基づいています。(4)には私が古書店から入手した「万人講」の記録が掲載されています。資料館がその抽選の舞台となった榴ヶ岡にあることから、改めて史料を読み直しました(解読文は、1943年に刊行された阿刀田令造「郷土の飢饉もの」に所収。国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます)。そこで、中国古代の思想に基づく富の再配分のセレモニーであった、という見解を導き出すことができました。史料に繰り返し向き合うことの必要性を今更ながら学んだところです。

一方で、私自身にとっては多くの課題が残っています。拙著につながる研究で、天保時代の仙台藩は何らかの政治改革に取り組もうとしていたことは確実だと考えています。ただ、その具体的な内容を明らかにできていません。江戸時代約260年の中でも最大級といえる災害に埋もれたままの、政治改革の内容を突き止める必要があります。

 さらに、その天保飢饉からの「復興」をめぐる政治過程もよくわかっていません。24歳で世を去った、12代藩主・伊達斉邦の生涯を追うという形での研究では、天保12年(1841)の斉邦の死後も長く続いたのであろう、復興への取り組みは視野に入りません。浦賀にペリー率いる太平洋艦隊がやってくるのは、仙台で最大級の冷害となった天保7年(1837)のわずか16年後です。「戊辰戦争150年」を機に、最後の藩主・伊達慶邦についての研究も深まりつつあるようですが、開国をめぐる政治状況の一方で、内政の課題として残されたであろう領地の再建はどのように図られたのか。場合によっては、仙台藩が消滅した明治維新後までも見据えつつ、史実の掘り起こしに努める必要がありそうです。

本務としては2月13日に起こった地震での史料レスキューもありますが、少しずつでも記録を読み進めて、以上の課題を解き明かしたいと考えています。

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