古文書に記されたセミ(2)飢饉への備え・夏の象徴

 セミの話題から書き始めたから、というわけでもないでしょうが、昨日からにわかにセミの声が賑やかになってきました。新型コロナウイルスの状況下、さらに長梅雨で西日本では豪雨の被害も出ていますが、これからは稲作への影響も心配されるところです。
 前回の「古文書に記されたセミ(1)」では、江戸時代の仙台藩のさむらいの一人であった、別所万右衛門の記録から、セミの初鳴きについて記しました。セミの話題、もう少し続けてみましょう。

飢饉への備え
 別所万右衛門の記録、天保6年(1835)年のセミの初鳴きについては前回記したとおりです。しかし、その後セミの声は止んでしまったようです。7月3日(7月29日)、霧雨・冷気のため10日頃(8月4日)、「ちぬら蝉」や麦刈蝉の数が少ない(「不足」)。7月19日(8月13日)、蝉が鳴かない。この日まで長雨が続き、朝には綿入れの着物を着るほどの涼しさ。人心に不安が走ったといいます。さらに、人々は今年の稲は青立ちで実らないだろうと覚悟し、米や穀物の蓄え(「囲穀」)を心がけた、との記事もあります。現代のような天気予報のない江戸時代、万右衛門や人々は身の回りの自然や生き物の様子から異変を察していました。言い替えるならば、それらの様子を日頃からよく見て記憶するような生活をしていた、いうことにもなるのでしょう。

セミの山車
 天保7年7月12日(1836年8月22日)、各町では「天気祭り」として、晴天を願う行事が行われたと別所万右衛門は記します。老若男女数名が裸にふんどし一丁で神社仏閣を廻り、辻々(通りの四つ角)では山伏がホラ貝を吹く中、「やあやあ」と声を上げて歩く。各町からは山車も出て、「暑くなれ」という意味か、「アツノアツノ」と声を上げながら往還を練り歩いた、ということです。
 その見世物の中に、「蝉の止まりたる体」、というものがありました。二日町(現在の仙台市青葉区二日町、国分町三丁目)から出されたものです。人々の祈りは通じず、残念ながらこの年は大冷害となってしまいましたが、夏の訪れの象徴としてのセミ、という仙台城下町の人々の思いが、ここからもうかがえるでしょう。

(補足)
仙台城下町は、伊達家が仙台に拠点を置く以前から従っていた町人や、慶長6年(1601)からの伊達政宗による城下町建設で周辺から移転、また新たに取り立てられた町など、24の町で構成されていました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください