弥十郎の築堤工事―古文書に記された「高輪築堤」⑦

 高輪築堤の工事に携わった、土木請負人・平野弥十郎の記録を中心にみる当時の状況、今回は弥十郎の築堤工事との関わり、そして鉄道の開業を迎えます。出典は特記なき限り、桑原真人・田中彰編『平野弥十郎幕末・維新日記』(北海道大学出版会 2000年)です。

高輪築堤の工事を落札
 明治4年(1871)11月、弥十郎は築堤の工事に応札しました。芝金杉と本芝の間を流れる川(入間川)を堀ざらえして土を確保し、芝浦から高輪大木戸までの海中に土手を築くというもので、工事費は1万両以内とされました。土の確保については、鉄道工事を担当する工部省と兵部省の間で、高輪の海軍病院および如来寺敷地内からの土砂採掘をめぐる軋轢が起こっていたことを記しました。工事現場に近い場所で土を確保するために、至近の川底から土を求めることになったということでしょうか。
 弥十郎は、これまでも共同で事業に参加してきた安達久治郎や、尾張屋嘉兵衛、斎藤彦治郎らとともに応札し、落札します。
 この工事に対し、弥十郎は木場(東京都江東区)の材木商であった室田屋の投資を得た、とも記します。高輪築堤の遺構からは木杭なども出土しているようですが、鉄道建設には当然木材も必須ですので、木場の材木商にとっても魅力ある投資先だったということでしょう。弥十郎が木場に隣接する深川の石問屋から調達を計っていましたが、築堤の工事は「都市・江戸」の建築材の供給網に支えられていたということになるのでしょう。

芝の入間川から土を掘り出す
 川土の掘り出しですが、「芝橋松金」(『新選東京名所図会』に出てくる、芝の海岸沿いにあったと料亭「松金」付近を指すか/港区1979)の下に仕切りを設けて川を締め切り、そこから旧薩摩藩邸(現在のNEC本社敷地)の間(現代の地図から推測すると600~700メートルほどでしょうか)で、深さ約1丈(約3メートル)の浚渫を行い、その土を芝浦に運んだとあります。
 川底を相当に掘り込んだ、という印象は持つのですが、土木史的にはこの程度の工事は普通なのかどうか。また、この規模(川幅がわかれば掘り出した土砂量がわかるのですが・・・)の工事で、高輪築堤のどのぐらいの長さまで作れるものなのかも気になるところです。築堤の南側は、御殿山の土を用いて埋め立てていたとありましたので、築堤の工事は南北両方から進んでいった、ということになるのでしょう。
 田町海岸から高輪大木戸までの築堤工事については、真田某から請負の願いがあり、身分を取り糺した上で請け負わせています。

安政4年(1857)「分間懐宝御江戸絵図」より、入間川(破線の部分)。弥十郎は河口をせき止め、西端の薩摩藩三田屋敷(「薩州」(州薩)と書かれた場所)の間を浚渫して、築堤の土を確保していた。

築堤表面の「土丹岩」石垣を請け負う
 弥十郎は土手の表面の石垣に用いるは「土丹岩」(どたん・がん)の確保についても落札しました。これを、船越長右衛門なる者に請け負わせ、日々船にて運送させたとあります。「土丹」どたんは、地質時代の「新第三紀」(新生代第三期の後半 2400万年前から170年前まで)に形成された岩石で、砂質の粘土が凝固したものです(kotobankより)。
 弥十郎はその産地を明記していませんが、ネットで検索してみると、『埋文よこはま』39号(2019)で、弥十郎の日記に基づき、安政5年(1858)から万延元年(1860)にかけて弥十郎が建設に関わった神奈川台場(神奈川県横浜市)に、土丹岩の産地であった相州磯子村(同前)の堤磯右衛門がかかわっていたことが記されていました。高輪築堤での土丹岩の調達も、同じようなこのときのつながりを念頭にあったものかもしれません。
 出土した高輪築堤の石垣は、まさに築堤の象徴的な景観です。表面に使われたのが土丹岩であるのか、その産地についても、詳細な調査が行われることを願いたいところです。

(参考)
「横浜の台場」『埋文よこはま』39、公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団 2019年
『新修港区史』第一編第六章第2節(港区1979年)
*デジタル版港区の歩みより閲覧 
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1310305100/index_minatokushi.html

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