弥十郎、北海道に渡るー古文書に記された高輪築堤⑧

 「高輪築堤」の建設に関わった平野弥十郎の記録、今回は明治5年(1872)の弥十郎の北海道転出に関してです。出典は桑原真人・田中彰編『平野弥十郎幕末・維新日記』(北海道大学出版会 2000年)となります。

「北海道新道一覧双六」より「函館」(国立国会図書館デジタルコレクションより https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763139 原図は着色)

弥十郎、開拓使役人を拝命
 高輪での鉄道建設が進む中、明治5年(1872)1月26日(旧暦)、弥十郎は開拓使十二等出仕を拝命することになりました。
 開拓使は、明治2年(1869)に設置された政府機関で、現在の北海道および樺太の開発を役割としました。北海道大学の前身である札幌農学校や、サッポロビールの前身の開拓使麦酒醸造所は、その附属機関として明治9年(1876)に設置されたものです。
 弥十郎は前年12月には開拓使建築用達を拝命し、北海道での新道開発に関する絵図の作成に関わっています。また明治5年1月20日には「土方・測量の心得のある者」として、開拓使御用掛を拝命していました。
 開拓使への転出に際しては、弥十郎の妻・とみが強く反対したとあります。土木請負人としての腕や経営手腕についての高名を捨てて、わずか金25両の月給で、なぜわざわざ遠い北海道に行く必要があるのか。今の方が何倍も稼げる、というものでした。これに対し弥十郎は、請負の渡世は浮き沈みが激しいのが常であり、いつどうなるかわからない。よって宮仕えを選んだ。しかしその月給で終わるつもりはない、と返しています。
 2月28日、弥十郎一行ら総勢500人が、品川沖の東京丸で北海道に向かいます。3月2日には、函館近くの尻岸内(北海道函館市)沖で船が座礁する事態にもなりましたが、なんとか救助されて上陸。5日に函館に到着した後の弥十郎は、函館・室蘭・札幌を結ぶ「札幌本道」の建設や、小樽の市街地開発など、北海道での土木建設に苦闘することになります。

胆振国室蘭(北海道室蘭市)より鷲別(登別市)までの山道。「北海道新道一覧双六」より。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763139 より。平野弥十郎が建設に関わった札幌本道の一部。

鉄道建設関係者の開拓使転出
 弥十郎の記録によれば、明治4年(1871)10月28日に、弥十郎の代人として高輪築堤の工事に当たっていた内田弥吉が開拓使十四等出仕(この際「中村」と改姓)に、弥十郎旧知の薩摩藩士で、工部省鉄道掛として鉄道建設に関わっていた薩摩藩士の肥後七左衛門も開拓使に転任していました。開拓使役人は、新道の図面作成に際しての弥十郎の腕を見こんで、肥後を通じて弥十郎に採用を伝えたとあります。弥十郎も含め高輪築堤に関わっていた人々が、今度は北海道での新道建設に従事することになったのでした。
 なお弥十郎が関わっていた鉄道建設は、安達久治郎が引き継いだようです。安達は戊辰戦争時に弥十郎に江戸大工の窮地を訴え、その後は弥十郎の関わる土木工事に参加していていました。明治4年(1871)11月、安達は工部省に雇い入れられ、イギリス人技師シェパードの指導を受けつつ工事に取り組んだとあります。
 弥十郎の開拓使役人としての登用は、請負人としての手腕とともに、明治政府としては、江戸や横浜での大規模土木工事の経験を持つ集団ごと、北海道の開発のために移転させたということになるのでしょう。

その後の築堤工事
 上述のように、弥十郎は北海道での事業のため、その後は9月(旧暦)の開業に至るまでの工事には直接関わらなくなります。
 ただし、翌明治6年(1873)10月31日の記事に、高輪築堤の工事に関する話題が出てきます。弥十郎は長年、美濃(岐阜県)出身の治助(姓不明)という者を土木人足の世話人として使ってきたが、明治2年(1869)に治助が横浜で病死した後は、兄の手伝いをしていた弟の初五郎がそれを引き継いで「高輪場所」での世話を行った。弥十郎が開拓使に出張した後は、「高輪鉄道外波除け杭打ち(の)請負」に出精したとして、結婚の世話をしたというものです。
 今回出土した高輪築堤の遺構からも、築堤の外側、東京湾側に杭打の遺構が確認されているようです。弥十郎が北海道での事業に従事するようになった後も、弥十郎の関係者が引き続き工事に従事していたことがうかがえます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください