八ッ山の橋台建設 古文書に記された高輪築堤④

高輪築堤の建設に関わった、平野弥十郎日記の紹介、今回は明治3年(1870)から4年です。出典は特別な注記のない限り、桑原真人・田中彰編『平野弥十郎幕末・維新日記』(北海道大学出版会 2001年)です。

八ツ山の橋台工事の入札
 明治3年(1870)11月、鉄道工事で堀割となった八ッ山から品川宿(東京都品川区)の北側入り口をつなぐ部分に、新たに「西洋型木製」の橋を建設することとなりました。この橋台部分の工事の入札が行われることとなりました。

明治4年(1872)6月 歌川芳虎「高輪蒸気車之図」(部分、国立歴史民俗博物館所蔵、同館データベースkhirinで閲覧、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスによる利用規程に従い、ダウンロードの上で掲載。https://khirin-a.rekihaku.ac.jp/nmjh_nishikie/H-22-2-49 )
鉄道を立体交差する西洋風の木橋(初代の八ツ山橋)と、吉田弥十郎が工事を請け負ったという橋台の六角形の石組みが見える。明治5年(1873)10月の鉄道開業以前に描かれたもので、群衆や、実物とはあまり似ていない蒸気機関車は想像で描いたのだろう。

 そのための費用を、弥十郎は、真鶴などでの石材掘り出しへの出資を申し出た信濃屋某に相談しようとしました。ところが、この某が「山師」であったことが発覚します。鉄道工事への出資を持ちかけつつ、周囲から千数百両もの借金をして、500両は投資しますが、残りの金をもって姿をくらましてしまったのです。
 そこで弥十郎は、森田屋藤助と、安達久治郎の三名で工事に応札。無事落札します。橋梁部分の工事は安達が担当することとして、弥十郎と森田屋で橋台部分の工事にかかります。石垣の工事は、横浜の加納屋茂兵衛に請け負わせることとしました。弥十郎、森田屋、加納屋はすぐに三名で相州真鶴の青木丈左衛門方に出立し、現地での石の切り出しと品川までの輸送を委託し、契約を取り交わした上で、手付金を渡しました。
 弥十郎はさらに、東京・深川(江東区深川)の石問屋を通じて石材の調達をおこなっていましたが、そこに真鶴の丈左衛門から、石材を積んだ一番船が品川に到着。横浜から加納屋が出張して、橋台石垣の建設に取りかかります。

*江戸時代の石切の様子を描いた屏風「石切図」の一部が、神奈川県立歴史館だより3号、2015年の表紙に掲載されています。
http://ch.kanagawa-museum.jp/uploads/newsletter_vol21_no3.pdf

東京・深川の石問屋
 東京・深川には、いまでも「仙台堀」に名を残す、仙台藩の蔵屋敷もあった場所です。この地は江戸時代の後半から、廻船が運ぶ諸国の物資の集散地として繁栄を遂げていました(曲田1993)。
 同地の石問屋は、江戸のいわゆる株仲間にも含まれていました。明治10年代に当時の東京府が文献や古老の聞き書きからまとめた「東京諸問屋沿革誌」(東京都 1993)という記録によれば、享保6年(1721)には16名の仲間が結成、天明5年(1785)には石工300名を「国役」(江戸幕府による土木工事)に拠出することを願い出ていますが、ここに「深川組」の名が見られます。
 下って嘉永4年(1851)、天保改革による株仲間解散からの復興に際して作成された「諸問屋名前帳」(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧)には、深川蛤町の湊屋七左衛門、深川諸町の伊勢屋政五郎、深川多田町の金兵衛の3軒が署名・捺印しています。
 深川には木場(現在の東京都木場公園)があり、諸国からの材木も集まってきました(曲田1993)。大型荷物の輸送に至便な深川は、土木・建築資材が豊富に調達できる場所だったのです。

弥十郎、芝田町への転居
 明治3年12月、弥十郎は鉄道工事の繁忙を理由に、宇田川大横町の乾物店を閉店・売却し、芝田町三丁目(現・芝田町五丁目)に転居。薩摩藩出入の荷役請負人の隠居屋だったという2階建ての建物からは海が見渡せ、庭も広い、と記されています。家や井戸の手入れ、土蔵の新築を行ったとあります。この場所からは、海上に伸びてゆく鉄道の築堤もよく見えたことでしょう。

(参照)
曲田浩和「巨大都市江戸の変貌」齋藤善之編『新しい近世史3 市場と民間社会』新人物往来社 1996年
『江戸東京問屋史料 諸問屋沿革誌』(東京都 1995年)

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