古文書に記された「高輪築堤」③―弥十郎、「相州六ヶ村」で石材を確保

 高輪築堤の工事を請け負った平野弥十郎が残した日記、明治3年(1870)の続きです。いよいよ高輪の海上築堤の話題に移っていきます。出典は注記のない限り、桑原真人・田中彰編『平野弥十郎幕末・維新日記』(北海道大学出版会 2001年)です。

「海中土手」の敷設
 弥十郎の記録には、新橋から芝浦までは陸地だが、芝浦(東京都港区芝浦)から品川(港区高輪)までは「海岸付」なので、ここに幅12尺(約3.6メートル)の馬踏(ばふみ:堤防の上面、馬が行き来するということから)をもつ土手を築いて、その上に鉄道を敷設する、とあります。しかし、そのための土の運送は、品川の停車場の「地理方」が漸くできたばかりなので取りかかっていない、とあります。
 線路が海上に押しやられた経緯については、海防上の要地であることを理由に、兵部省からの横やりが入った、ということが知られます(出典)。
 また、弥十郎が記した馬踏の幅について、東京都港区立郷土資料館がウェブで公表している、出土した高輪築堤の資料に掲載されている図面と見比べましたが、開業当時にレールが敷設された築堤上辺の幅が合っているのかは、よくわかりませんでした。

相州真鶴村の青木丈左衛門、石材調達を請け負う
 その一方で、土手に用いる石材の確保が始まりました.弥十郎によれば、この土手の海面の表側には上等の角石、裏に向かって細くなる「間知石(間地石 けんちいし)」を用い、基礎部分は漆喰で饅頭型に固める「亀腹」にする計画であるため、石が大量に必要になったとあります。鉄道工事に当たる工部省では、入札を募って医師を集めるのではなく、当時の小田原藩知事を通じて、石の産地であった「相州六ヶ村」の適当な者を人選して請け負わせることとしました。小田原藩では、真鶴村(神奈川県真鶴町)の青木丈左衛門なるものを選び、石の見本を携えて東京の工部省に出頭させました。丈左衛門は掛り役人の川口氏の宅に滞在し、石の調査を受けます。その結果、土手工事に用いる石を一手に任されることになりました。丈左衛門は非常に喜び、「相州六ヶ村」の石切仲間に下請けをさせ、自らも真鶴村の持山から石を切り出し、持ち船の明神丸に積んで、海をへて高輪まで運ぶことにしました。
 この時、請負を申し付けられた石は、一辺1尺(約30センチ)で、長さが3尺(約90センチ)を4万本でした。一方、石の切り出しは、実際に石切に当たる業者に前金を貸し付ける形で行うため、その資金の確保が問題となったようです。

石の産地・相州六ヶ村
 高輪の築堤に用いられた石を算出した「相州六ヶ村」とは、弥十郎も記していますが、米神(よねかみ)村・根府川村(以上、神奈川県小田原市)、門川(もんがわ)村・吉浜村(以上、神奈川県湯河原町)、真鶴村・岩村(以上、神奈川県真鶴町)です。
 現在の神奈川県西部から伊豆半島にかけては、箱根山の火山活動で噴出したマグマが固まって出来た安山岩が生成されています。江戸時代、上記の六ヶ村は、「相州堅石」とよばれた石を、江戸城などの石垣修築や、幕末の品川台場や横浜港などの建設に用いる御用石を調達する役割をもっており、明治政府による初期の工事でも同様の役割を引き継いでいたといいます(丹治2016)。鉄道工事についても、江戸時代以来の石材調達のしくみに基づいて、幕府による公共工事に用いられてきた、最高水準の石を用いた、ということになるのでしょう。

*参考 神奈川県真鶴町に残る石材採掘遺構の写真
石さんぽ(6)最大の成功者を輩出 相州堅石
https://www.kanaloco.jp/news/life/entry-8182.html
(神奈川新聞「カナロコ」2017年2月9日/最終閲覧2021年6月5日)

なお丹治2016によれば、江戸時代の相州六ヶ村での石材産出については『真鶴町史』に記載があるとのことです。青木丈左衛門家や、高輪も含めた鉄道工事への相州六ヶ村の関わりについてもが記されている可能性がありますが、見ることが出来ていません。インターネットで調べられる範囲では、研究論文は少ないようですが、もし研究途上だとすれば、地元での資料の掘り起こしも含めた研究の進展に期待したいと思います。

弥十郎の資金調達
 弥十郎によれば、青木丈左衛門は真鶴村の村役人で、広大な住居と大船を持つ、相州六ヶ村で屈指の有力者だった、とあります。

 それでも、事業当初の資金に不足したため、門川村生まれの横浜海岸通の石工・加納屋茂兵衛に相談します。この加納屋からの書面をもって、丈左衛門は弥十郎を訪問しました。両人は、神奈川台場の普請(弥十郎日記によれば、安政4年・1857年ヵ)以来の懇意だったとのことで、弥十郎は資本金の用立てを請け合いました。自らは「金貸」ではなく(土木)請負人だとして、弥十郎も含め「用石請負の仲間」を作り、資本金1000両は弥十郎と丈左衛門で折半、利益・損失はそれぞれ折半と取り決めました。

出資の申し出
 弥十郎は丈左衛門を宿に滞在させ、資金の確保に入ります。森田屋藤助なる者を請負仲間に加入させ、横浜本町(元町)の(生糸)売り込み問屋の鈴木屋安兵衛から二名の名義で金500両を借用します。
 これを丈左衛門に渡そうとしたとき、弥十郎の知人の小林時三郎がやってきて、出資者の話を持ちかけます。小林が紹介したのは、芝・片門前の信濃屋某なる者でした。嘉右衛門は弥十郎を尋ねてきて、請負事業に関わりたいがつてがなく、請負人として高名で、目下鉄道工事に関わっている弥十郎の組合にぜひ入りたい、と願ってきました。
 これに対して弥十郎は、鉄道工事は追々大きな入札がある模様だが、自分一人では及ばないので、組合には参加してもらう、ただし名義は弥十郎一人となること、丈左衛門が請け負う用材4万本採掘の資本金1000両のうち金500両を出資する予定であることを伝えると、残りの500両は、信濃屋が負担したいと申し出てきたため、出資の期限日を定めて組合に加入させることとしました。前述したように、弥十郎自身も資金の調達を思案するなかで、知人の紹介という事もあって、すんなりと受け入れたのでしょう。
 この件について、すぐに真鶴の青木丈左衛門や森田屋に相談して了承を得ます。しかし、嘉右衛門からの出資は、所定の期日を過ぎてもなされません。すると、ようやく資金が揃ったとして、芝神明宮前の料理屋・車屋万兵衛にて、4人での組合の約定が取り結ばれました。出資金は弥兵衛・森田屋と信濃屋で金500両ずつ、合計1000両が丈左衛門に渡されます。また、所定の石材を納入した上で、決算の際の残金から資本金の利息を差し引いた額を4者で配分することとし、丈右衛門は真鶴に帰郷しました。
 ところがこの出資金を巡って、弥十郎はトラブルに巻き込まれることになります。

参考 丹治雄一「明治期の箱根山周辺安山岩の石材利用と土屋大次郞の事業活動」『神奈川県立歴史博物館報告―人文科学―』43、2016年
https://ch.kanagawa-museum.jp/uploads/kpmrr/kpmrr043_2016_tanji.pdf

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