仙台藩上屋敷の終焉―新橋駅設置の前史

新橋駅の敷地―仙台藩・龍野藩・会津藩の江戸藩邸
 今回は、日本最初の鉄道の起点・新橋駅の敷地となった、仙台藩の江戸屋敷(江戸藩邸)についてのメモです。
 仙台藩江戸藩邸については、2003年に刊行された『仙台市史』通史編4近世2に特論として「仙台藩江戸屋敷とその変遷」がまとめられています。また、旧国鉄・汐留貨物駅大規模な発掘調査の報告書『汐留遺跡』Ⅰ~Ⅳ(1992~2006)には、遺構や出土品、さらに歴史学の立場からの論説や、典拠となった古文書が掲載されています。メモはこれらの文献を参考にしています。
 新橋駅の敷地ですが、正確には仙台藩と、隣接する播州龍野藩5万1千石、そして会津藩(保科家(松平家)23万石)の江戸藩邸だった場所になります。当時の錦絵などで知られる駅舎などの建造物は主に旧龍野藩邸に位置し、その南側にある旧仙台藩邸だった敷地に向かってプラットホームが伸びていました。

天保8年(1837)金丸彦五郎図・須原屋茂兵衛判「分間江戸大絵図」より。「松平陸奥」が仙台藩上屋敷。図では右隣の「脇坂淡路」が龍野藩脇坂家の上屋敷、「松平肥後」が会津藩の中屋敷。「濱御殿(浜御殿)」は将軍別邸で、現在の浜離宮恩賜公園。(国会図書館デジタルコレクション公開図より部分引用)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542728

大名の江戸屋敷
 江戸幕府は、仙台藩も含む全国の大名に、一年おきの参勤交代とともに、妻子を江戸に居住させることを求めました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直前、加賀の前田利長が、生母の芳春院(前田利家の正室・まつ)を徳川家康への忠誠の証として妻子を江戸に送ったことは、その最初の事例の一つとされています。慶長8年(1603)ごろには、その仕組みが整ったようです。
 諸大名の江戸屋敷には、藩主の公務や妻子の居住地、さらに各藩の江戸の業務の拠点となった「上屋敷」、江戸滞在が求められた大名の嫡子が暮らす「中屋敷」、江戸市中に火災が発生したときの避難所や、江戸郊外の別荘としても使われた「下屋敷」がありました。また「下屋敷」では大名や家臣たち生活物資の調達や、藩による特産品専売の拠点となる場合がありましたが、これについては別に「蔵屋敷」を設けることもありました。 

仙台藩の江戸上屋敷
 仙台藩の江戸屋敷は、関ヶ原の戦いの直後、慶長6年10月(1601)に、京都・伏見城にて、伊達政宗が徳川家康より江戸の4箇所を拝領しています。政宗は翌年の10月には未完成であった江戸屋敷に入っています。 寛永13年5月24日(1636年6月27日)、政宗が生涯を閉じたのは、当時は外桜田(千代田区幸町一丁目/帝国ホテル東京付近)にあった上屋敷でした。
 その後、伊達家の各屋敷の場所は頻繁に移動しています。上屋敷は寛文元年(1661)に愛宕下(港区新橋五・六丁目)へ、さらに延宝4年(1676)には浜(芝口)(港区東新橋一丁目)に移ります。この場所は、もともと寛永18年(1641)に下屋敷として与えられた場所で、江戸湾の入り江の湿地帯でした。江戸幕府による参勤交代と妻子の江戸居住の制度が確立し、人口が増加した江戸城下の人員を収容するため、都市・江戸を整備する事業の一つとして、伊達家が埋め立てから整備していました。
 以後は江戸時代を通じて、浜屋敷が上屋敷として用いられました。敷地の面積は2万4860坪にも及んでいました。江戸時代の後半の絵図によれば、西側に正門があり、敷地の四方には諸士たちの長屋や土蔵が、御殿を取り囲むように立ち並んでいました。また南東側には大きな池をもつ庭園がありました。
 天保6年(1835)~8年頃の、歌川広重の作品「江都勝景 芝新銭座之図」には、大きな黒門とそれに連なる長屋が描かれています。

「江都勝景 芝新銭座之図」国立国会図書館デジタルコレクションより引用 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1301981

江戸屋敷(上屋敷)の終焉
 文久2年(1862)、江戸幕府の制度改革の中で、参勤交代は3年に1度、江戸滞在を100日緩和に緩和し、妻子の帰国も許可されます。仙台藩でもこの際に藩主家族を国元に引き上げさせたようです。(以下『汐留遺跡』Ⅰ所収、舟橋明宏「仙台藩伊達家と龍野藩脇坂家の江戸屋敷について」1997年、および『汐留遺跡』Ⅲ17ページ「汐留地区近世史年表」による)
 戊辰戦争が勃発した慶応4年(1868)3月には、藩士とその家族たちも引き上げるよう命じられ、わずかな人数が残るだけでした。
 仙台藩が新政府軍に降伏したのは、明治と改元した直後の9月15日でしたが、翌16日亥刻(午後10時~12時)、芝の仙台藩「明屋敷」(空き屋敷)が「焼亡」したことが、江戸の町名主・斎藤月岑が編さんした『武功年表』にあります(金子光晴校訂『増訂武江年表2』東洋文庫118 平凡社/ジャパンナレッジを利用)。
 明治2年(1869)6月には、世良修蔵暗殺事件に参加した仙台藩士・大槻安広が護送され、「陽洋閣」から海を見たり、入浴したことを記録しています(「大槻安廣履歴書」平重道『伊達政宗・戊辰戦争』宝文堂出版 1978年所収)。一部の建物は焼け残っていた、ということになるのでしょう。『武功年表』では、明治2年12月27日子の刻(深夜0時頃)に元数寄屋町(東京都中央区銀座五丁目)で起こった火災により、「脇坂侯、仙台侯元屋敷あたりまで数か所焼亡する」とあります。旧仙台藩上屋敷にまだ建物があり、被害が及んでいたのかは、この記事では判然としません。
 明治3年(1870)2月13日、芝口の屋敷は明治政府に収公されました。約200年間続いた仙台藩上屋敷の終焉です。その後、3月25日には測量が始まり、4月12日には地ならし工事が始まりました(前掲、舟橋1997)。
 仙台藩上屋敷の痕跡は、文明開化の象徴ともいえる新橋ステーションの下に埋もれていったのでした。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください