二つの大日堂―戦災からの「復興」とは

2019年7月10日撮影、柳町大日堂。夏祭りの準備が行われていた。

 仙台市青葉区一番町、仙台で一番高いビルの側に、柳町大日堂というお堂があります。
 郷土史家の故・三原良吉氏が記した縁起によれば、仙台城下町を建設する際の町割り(区画の決定)に使った縄の一部を燃やして埋め、そこに仙台城下町を鎮護するため、大日如来(真言密教が本尊とする仏)を祀ったとのこと。そのお堂は、大正8年(1919)3月3日の大火の後で再建されたお堂は、昭和20年(1945)7月10日の仙台空襲で焼失。町内の人々によって再建されたのは、それから8年後の昭和28年(1953)7月とのことです。縁日は7月19日・20日。仙台空襲の日から9日後や、また新しいお堂が出来るまでの縁日は、どのように行われて、人々はどのような思いを持っていたのでしょうか。

2019年7月10日撮影、田町大日堂。縁日の飾りがあった。

 また、東北学院大学土樋キャンパスの側にある田町大日堂は、慶安2年(1649)に再興、明治初年の廃寺の危機を経て、同36年(1903)に信徒や町内有志により再興。しかし、これも仙台空襲で焼失。長らく仮のお堂をへて、現在の姿に再建されたのは平成20年(2008)。実に63年が経っていました。

 仙台市の「戦災復興」は、計画道路やケヤキの植栽など、「都市計画の達成」が強調されています。一方で人々の生活に根付いていたであろう社寺は、錦町公園として整備された地区にあった寺社など、移転を余儀なくされたものもあります。現地での再建も、場合によっては非常に長い時間を要していました。

 人類初の原爆投下が行われた広島市の平和都市としての「復興」について、必ずしもそこに結びつかず、「復興」と摩擦を起こしていた人々の生活再建への動きや、そこでの人々の「声」に着目し、戦災復興を問い直すという研究を目にしました(西井2020)。歴史的文脈を無視して、広島市その他の戦災復興の経験が、東日本大震災の「復興」にあたって安易に「成功例」として引用されることへの懸念も共有できるものです。

 仙台市についても、あらためて様々な声を掘り起こす必要があるのかもしれません。聞き取りや新聞記事もそうですし、2022年度、仙台市にもようやく公文書館が設置されます。戦災復興の中で、人々の声がよみがえるような歴史的公文書は、既に処分されているのか、あるいは新たな史料が見いだされるのか。不安と期待を持って待ちたいと思います。

(参考)
西井麻里奈『広島復興の戦後史 廃墟からの「声」と都市』人文書院 2020年

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