古文書の仙台七夕と「杜の都」、そして祭りの意味

藤崎前(青葉区大町) 2020年8月8日撮影

 仙台の最大の行事といえば、やはり8月6日から8日にかけての仙台七夕になるのでしょう。本当ならば今日が最終日。しかし、今年は新型コロナウイルスの影響で中止となりました。例年なら人でごった返す仙台のアーケード街、三連休と言うこともあってか、それなりの人出はありましたが、いつもよりはずいぶん少ないものでした。

 古文書に記された仙台七夕の記録としては、例えば仙台市史編さん室長であった菅野正道さんも紹介されていますが、国分町で紙や小間物を扱っていた菅野屋喜兵衛の手代であった佐吉という人物の記録があります。文政3年(1820)7月7日(旧暦)の早朝に、評定河原橋(仙台市青葉区)で前の日に飾った七夕飾りを広瀬川に流す様子を絵で記しています。資料ですが菅野さんの文章、また「伊達武将隊」の公式ブログに掲載されているのも見つけましたので、そちらもご覧ください。
 財団法人斎藤報恩会を経て現在は仙台市の所蔵となった佐吉のこの絵ですが、仙台七夕はもちろん、「杜の都」の原点をを考える上でも興味深い情報が得られます。

 にある川はもちろん広瀬川ですが、絵の上にある崖際に松並木が書かれています。これは、元禄8年(1695)の記録に見える「片平丁西の並松」で、伊達政宗がマツとサクラを交互に植えさせたことに由来するとの伝承もあるようです(菊池2008)。また、評定河原橋の左右にも樹木の描写があります。左側は屋敷の塀と思われる描写があり、敷地の中にスギとみられる背の高い木が見られます。塀の外に枝を出しているのはサクラでしょうか、枝が塀の外まで伸びています。樹木の豊富な様子がうかがう事ができるのです。セミたちにとっては楽園のような環境だったのかもしれません。

 ところで、大規模な行事としての仙台七夕は中止となりましたが、仙台の人たちが七夕飾りをすること自体がなくなったわけではありません。数枚ですが、新型コロナウイルス下での仙台の七夕を伝える資料として投稿してみます。

仙台市青葉区立町「kaffe tomte」にて
2020年8月10日撮影
仙台市青葉区立町「ビーアイ」の七夕飾り
1992年米国・フィラデルフィア市との交流行事で用いられた七夕キット
仙台市青葉区・芭蕉の辻 2020年8月8日
芭蕉の辻の短冊の一つ
2020年8月8日


 小さな商店や飲食店の店先には、いつもよりも七夕の飾りを付けたところが多かったように思われます。いや、毎年あったのに、私自身は大規模な飾りに幻惑されて見落としていた、ということなのかもしれません。仙台七夕は、「だれの、何のための」行事なのかを考えさせられます。
 あるいは、このような状況になったからこそ、仙台七夕が市民の文化としてしっかり根付いていることが現れているのかも知れません。そのことは、東日本大震災の後と同様、この「災害」の下で、伝統行事が人々の暮らしに果たす役割を改めて考えるきっかけにもなるのでしょう。

参照
菅野正道「仙台城下町人列伝18 仙台城下の日常を記録し、仙台七夕のルーツの証言者となった奉公人「佐吉」」仙台商工会議所『飛翔』2010年8月号
菊池慶子『「杜の都・仙台」の原風景―樹木を育てた城下町―』国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書6 2008年
伊達武将隊公式ブログ「六右衛門日誌 江戸時代の仙台七夕まつり」2018年7月7日投稿

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