「高輪築堤」の建設に関わった平野弥十郎の記録、今回は明治5年(1872)の鉄道開業後、弥十郎の乗車体験に関してです。出典は桑原真人・田中彰編『平野弥十郎幕末・維新日記』(北海道大学出版会 2000年)となります。
弥十郎、汽車で横浜から東京に帰る
明治5年9月15日(西暦1872年10月14日)、新橋駅にて、明治天皇以下の要人が列席する中、鉄道開業の式典が実施。新橋・横浜に、日本最初の鉄道が開業します。
午前8時から午後6時の間に9往復、高輪築堤の上を1日18回列車が行き交うことになりました。
北海道に拠点を移していた弥十郎は、それから約2か月後の旧暦11月21日、開拓使としての用務のため東京に戻ります。函館から外国船で横浜に深夜に到着。ここで一泊して、翌日は汽車で横浜駅(現在のJR桜木町駅)から汽車に乗車。東京・芝田町三丁目の自宅へ帰ります。帰宅を喜ぶ家族の中には、留主中の3月に生まれた娘のおたかもいました。
弥十郎の乗車経験
ところで、弥十郎は自らが工事に関わった、高輪築堤の区間を乗車していたのでしょうか。
最初の横浜から東京への乗車に際しては、上述の帰京に際しての記事として、「東京新橋より横浜間の鉄道今年開業成しに付、我も始めて汽車に乗りたり」と記していますが、どこで下車したのかは明記されていません。
時期は下りますが、明治9年(1876)5月20日には、弥十郎が当時関わっていた読売新聞販売の事業のため大阪に出張。この時は「新橋より神奈川までは鉄道汽車、それより小田原まで人力車にて行き(後略)」と、新橋駅から、横浜駅の一つ手前の神奈川駅で下車したことが記されています。
また明治15年(1882)3月27日には、北海道から娘の「ちよ」らをともなって、午前7時に新橋駅から汽車に乗って神奈川で下車、そこから人力車にて相模中新田(神奈川県海老名市)の親類方を訪問しています。なお、一行は翌28日に藤沢(神奈川県藤沢市)から江の島で水遊びをしつつ宿泊、29日には鎌倉(神奈川県鎌倉市)の鶴岡八幡宮や、金沢(八景、神奈川県横浜市)を見物した後、横浜駅から汽車に乗って午後5時に新橋に到着、と記してます。
横浜以西の鉄道開業までは、西への旅は横浜の一つ手前の神奈川駅で下車して、そこから陸路を利用していました。また江の島や鎌倉を遊覧した後に横浜駅から汽車という行程は、当時の鎌倉・江の島遊覧の経路として一般化できるのか、気になるところです。
いずれにせよ、弥十郎は、自ら工事に携わった高輪築堤の区間を乗車していたことがわかります。どのような気持ちで、その区間を通過していたのか、残念ながら記録には記されていません。
鉄道の開業から17年後の明治22年(1889)10月6日、弥十郎は67歳で永眠しました。弥十郎の記録から高輪築堤をたどる旅も、ここで一区切りとなります。