旅人が見た「高輪の鉄道」ー福島の絹商人の記録から

「高輪築堤」の記録を求めて
 先ほど平野弥十郎の事を紹介しましたが、一方で、あのとき東京にやってきていた旅人たちは、「蒸気車の走る高輪の築堤」のことを何か書いていないだろうか、ということを考えました。
 もちろん、港区のサイトでも紹介されているように、錦絵は色々な構図のものが残されています。当時の様子はそれを見ればわかるのですが、旅日記や紀行文の中に、鉄道を見た人々の感想なり、あるいは状況の描写があれば、鉄道という新しい技術に対する人々ー特に、庶民たちーの思いも知ることが出来るかも知れません。
 小津久足『陸奥日記』か江戸時代の紀行文学を学ぶ中で、その特徴である写実性・客観性について学んでいることもあり、鉄道についても、写実的・客観的な記事があるのではないか、とも考えたからです。

「鉄道のある高輪」―髙橋兼助の旅日記
 資料を探すのに、「まずはネット検索」となってしまうのが悪い癖なのですが、そのネット検索で、髙橋兼助著・髙橋歌子訳『福島の絹商人、文明開化に出会う 明治六年の旅日記』という書籍を見つけました。2017年に小学館から電子版されています。現在の福島県川俣町の絹商人・高橋兼助ら6人が、明治6年(1873)2月5日から6月15日までの135日間、東京から伊勢神宮、さらに西国を旅したときの記録を、編者が現代語訳したものだということです。早速電子書籍を購入してみると、鉄道ののことも含めた、高輪の景観の様子がありました。鉄道開業から約5ヶ月後の、明治6年3月4日の記事です。

 この日、兼助は(新橋)駅から「蒸気車の会社」(車庫?)を見たが、乗車は出来なかったため、徒歩で川崎宿(神奈川県川崎市)に向かいます。芝の愛宕山に登って東京の町を展望、その後は増上寺、芝神明社(現在の芝大神宮)に詣で、その門前でそばの昼食。さらに品川の海門寺をめぐっています。そのあと、高輪の街を通ります。以下、引用です。
 
「高輪を通る。高輪を通る。片町で右にはお台場、蒸気機関車が走る鉄道、海苔を取る様子も見える。(海には)大きな船が沢山あり、誠に十景である」
 
 高輪の風景として描写された「鉄道」が、高輪築堤でることは確実でしょう。
 海に面した街並み、台場、鉄道、海苔漁の様子、船。編者によれば、兼助が感嘆する表現だという「十景」ということばで、一体の美しい風景として表されていたのでした。

「矢の如し」ー泉岳寺あたりで汽車を見る、
 兼助は高輪の街から泉岳寺へ向かい、赤穂浪士の墓所や史跡を訪ねます。その時、汽車が通るのを見たようです。

 「蒸気機関車が通るのを見る。矢が(飛ぶ)よりも早い」

と、その速さに驚いていました。泉岳寺から見える鉄道も、もちろん高輪築堤の上を走る列車だったのでしょう。
 鉄道開始当時のダイヤですが、泉岳寺に近い品川駅には、新橋駅発の列車(下り)が、午前8時から午後6時まで、毎時8分発。横浜駅発の列車(上り)はおなじく毎時43分発(マイナビ連載「列車ダイヤを楽しもう1 日本の鉄道開業時の列車ダイヤを再現してみた」および、同記事よりのリンクにて国会図書館デジタルコレクション「明治5年 法令全書」を参照)。昼食後に芝から品川宿にある海雲寺に出かけたということは、一度川崎の方に向かってからまた高輪に戻った、ということになるので、兼助が築堤の上を走るのを見たのは、午後2時の時間帯とも推測できますが、どうでしょうか。

 その後、品川では「橋の下を行く鉄道を見た」とあり、これは八ツ山橋の下を行く鉄路、とうことでしょう。吉田弥十郎が切り開いた場所を見つつ、兼助は大森(東京都大田区)へ、そこからは人力車で川崎にむかったのでした。

出版に感謝/まだまだ眠る記録を探そう(お願い)
 自費出版で、貴重な記録を「公共の財産」としてくださった関係の方には感謝です。電子書籍で見られるのもありがたいことでした。叶うならば原史料に当たることが出来れば、もっと詳しい事が読み取れるのかも知れません。

 また、「高輪築堤」と直接記さずとも、鉄道開業以後の時期に東京を訪れた旅人が記した旅日記・紀行文などの中に、「高輪の海上を行く列車」を見た記録が眠っているかもしれません。こちらは、公刊されている史料集や、地域の資料館・博物館・図書館などに眠る未公開資料を探すことになります。何か情報があれば、お寄せいただければありがたく存じます。

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