古文書に記された「高輪築堤」-平野弥十郎日記

 このサイトは「仙台藩・宮城県の歴史発信」をするつもりなのですが、「鉄虎」でもあるので、再び「高輪築堤」について。そういえば、Googleマップで現地の写真が見られるようになっていますね。新型コロナウイルスの影響で、現地にいけない身として、ありがたいことです。

https://goo.gl/maps/fSKYshpK5BwiEK6G8

日本ICOMOS国内委員会からの要望書
 5月24日、日本イコモス国内委員会の有識者会議から、高輪築堤の全面的保存と、開発計画見直しについて要望書が出されました。
https://icomosjapan.org/document/opinion210524.pdf

東京・高輪築堤 イコモス国内委が全面保存求める要望書(毎日新聞5月26日)
https://mainichi.jp/articles/20210526/k00/00m/040/150000c

 イコモス(ICOMOS/International Council on Monuments and Sites国際記念物遺跡会議)は、1965年に設立された、人類の遺跡・歴史的建造物保存を進める非政府組織です。日本での活動としては、館主は「崖の上のポニョ」の舞台のモデルとなったとされる、広島県福山市の鞆の浦埋め立て架橋問題への提言を思い起こします。こちらは訴訟で「歴史的景観は国民の財産」として工事が差し止められ、2015年に計画が撤回。「世界遺産級」ともされる、江戸時代の港町の風情は残されました。

 日本の近代化遺産として21世紀最大の発見、市街地の鉄道遺構として希少で、世界文化遺産として国際社会の評価を受ける可能性といった、最大級の評価といっていい内容であり、関係方面の真摯な検討を期待したいところです。

平野弥十郎日記について
 新橋・横浜間を結んで敷設された、日本最初の鉄道遺構「高輪築堤」ですが、工事に携わった土木請負人・平野弥十郎(文政6年・1823生~明治22年・1889没)の記録が公刊されていることを、ご教示いただきました。

 生まれてから60歳までの自らの活動や社会情勢をまとめた「日誌」は、桑原真人・田中彰編著『平野弥十郎幕末・維新日記』(北海道大学図書刊行会)として2000年に刊行されました。全文の解読、および詳細な解説と注記が付されています。現在でも入手可能です。日誌を含む原本については、2013年に北海道大学文書館に寄贈されています(井上高聡「目録 平野弥十郎関係資料」北海道大学大学文書館年報10 2015年)。また、(当方はネットで知ったのですが)弥十郎はタレントの中川翔子さんの先祖で、人気番組「ファミリーヒストリー」でも、弥十郎のことに触れられた由です。

 平野弥十郎と鉄道建設については、鉄道史研究者や、地元の文化財関係者には既知の事かと思います。現状では現地に行くことはもちろん、仙台では、品川や高輪など地域に関する基本史料を手に入れにくいこともありますので、半分言い訳ですが、あくまで私的なメモとして掲載します。正確な情報は、ぜひ原典に直接当たってください。

 薩摩藩の御用達も勤めていた雪駄・下駄商の平野屋に養子に入った弥十郎は、嘉永5年(1852)11月、不景気を理由に店をたたみ、薩摩藩江戸屋敷への出入を願い出て、鑑札を受けて土木請負人となります。薩摩藩江戸屋敷など関連の土木工事に加えて、黒船来航を契機とする沿岸防備のための台場建設、や、安政2年10月2日(1855年11月11日)の大地震と、翌3年8月25日(1856年9月23日)の台風で大きな被害を受けた江戸の復旧で、大きな利益を挙げていたようです(以下、弥十郎の軌跡については日記本文及び橋本明代・岩見和子「平野弥十郎の生涯」、前掲書所収を参照)。「軍事」と「自然災害」が生み出す市場と、そこから得られる経済的利益と、人々の向き合い方という問題を考えさせられます。なお安政地震後には、生業の場を失った江戸市中の噺家や義太夫、上方のにわか師たちといった芸能者を土木人足として雇用した、といった記述もあります。救済の役割も持っていたのです。

品川・八つ山の堀割と築堤 明治2年記事より
 弥十郎が鉄道建設にかかわり始めたのは、やはり薩摩藩との関係が契機でした。明治2年7月(1869年8月)のことです。知己の大工棟梁・安達久治郎(喜幸)からの提案でした。築地(東京都中央区)の尾張藩邸跡に置かれた工部省には、総裁の大久保利通を筆頭に多くの薩摩藩士がいました。そのうちの一人である肥後七左衛門とは以前から懇意でした。工事は品川の八つ山下(東京都品川区)より取りかかることになっており、すでに測量が終っているとの情報もありました。安達は肥後との関係で、かなり詳細な情報を得ていたようです。
 以前から工事を請け負いたいと考えていた弥十郎は安達の提案を受け入れ、肥後を通じて工部省に出願し、請け負うことになりました。

 工事はまず八つ山下の往来を20尺(約6メートル)ほど掘り下げて、その上に仮橋を架けることから始まりました。大工仕事関係は安達が、土の掘り出しといった土木関係を弥十郎が落札しています。この仮橋は、明治5年に架橋された八ッ山橋の前身、ということになるのでしょう。
 安達が架けた仮橋の下を土を出す通路として、そこから八つ山の左右(両側)を掘り割って、そこで出た土を、原本の表現では「高輪海岸線路埋立」、すなわち高輪築堤の用土としたのでした。土を運ぶ人足が多数必要なので、弥十郎はその確保を命じられて、日々多くの人数を差し出したとあります。「此(この)年中続けて高輪に掛る」とありますから、明治2年のうちに築堤が始まった、ということになるのでしょう。

南側からの工事、では「北側」では?
 弥十郎らの工事は、品川八つ山から高輪、つまり北に向かって工事が進んでいることがわかります。そのまま進むと、東京側の起点・新橋駅に至ります。

 明治5年(1872)に開業する新橋駅の敷地には、このわずか5年前まで、仙台藩の江戸藩邸(上屋敷)だった土地が含まれます。その後は汐留貨物駅となり、1985年に廃止されたこの場所では、再開発に際しての発掘調査で、ホームの跡、その下に藩邸の遺構が出てきています。明治政府に収公され、取り壊されて、といことですが、実際の様子はどうであったのか。のちに大規模な発掘調査が行われ、報告書も出されていますので、まずはそれを調べてみることにします。

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