高輪築堤を見て、仙台城本丸石垣保存運動を思い出す

 JR東日本が東京の中心・港区高輪で進めている再開発工事の中で、非常に価値のある遺跡が出土しました。明治5年(1872)に開業した、日本最初の鉄道である新橋・横浜間の遺構「高輪築堤」です。約800メートルにもおよぶ石積みは、当時の錦絵に描かれた姿そのもの。日本最初の信号機の遺構まで残っていたとのことです。築堤に用いられた土木技術は、日本在来の技術に、西洋の技術が折衷したものだということです。すでに国史跡になっている新橋駅跡と一体のものでもあり、さらには世界遺産級の遺構だと考えられます。

所有者であるJR東日本は、ここにインバウンド拠点となる高級ホテルや、国際会議場を建設する計画でした。既存の再開発計画への影響、および変更時の数百億円に登る費用負担などを理由に、ごく一部の遺構を残して、残りは「記録保存」―発掘と記録の作成後は破壊する―ことを決定したようです。萩生田文科大臣から出された保存の要望も、結局は「JR東日本の意向の現状追認」で、より多くの遺構の保存を促すようなものではなかった、ということになるのでしょう。このことに対する日本考古学協会の辻秀人会長による、開発を前提とする拙速な進め方への反対意見の表明に、全面的に賛同します。

「日本在来の技術が生かされた石垣」ということを読んで、私は20年前の、仙台城本丸石垣の保存運動のことを思い出しました。

仙台城本丸石垣(2020年4月5日 佐藤大介撮影)

当時、仙台城本丸石垣は、そのすぐ側を通る市道の交通量増加によって、石垣の破損・倒壊も懸念されるような状態でした。さらに、伊達政宗が仙台の城と街づくりを始めてから400年目ということで、仙台市の記念事業として、本丸石垣の上に「あった」、艮櫓(うしとらやぐら)の「復元」が計画されました。ところが、石垣の修理を行う過程での発掘調査で、現存する石垣の基礎として、伊達政宗その人が築いた石垣の一部が残っていることが確認されました。その後、石垣は2度の大地震で崩壊しますが、それらを新たな石垣の基礎構造として再利用しつつ、1670年代に現在の姿となります。以後は21世紀の修築工事まで約330年の間、地震での大きな被害は見られませんでした。

 一方で艮櫓は、仙台城では建設されなかった天守閣の、いわば代替施設として、「史実に基づき」、市政400年の記念物として、また観光施設として「再建」されることになっていました。しかしそれは、現在の建築関連の法規に適合させるため、石垣の中に基礎杭を打ち込む計画でした。そうなれば、政宗の遺構は、建物を「再建」するために破壊されることになります。

一方で、歴史研究者たちが、仙台城本丸に関する史料を検討した結果、現存する石垣の上には櫓はおろか、塀すらも、過去に一度も作られていなかったことが明らかになりました。すなわち、現存する本丸石垣の上に艮櫓を建てることは、史実にもとづく「再建」ではないことが明らかになりました。

政宗による開府400年に際して、史実に基づかない建造物を建設するために、政宗自らが築いた遺構を破壊することは許されない。研究者たちと市民によって、艮櫓の建設中止を求める運動が繰り広げられました。研究者側からは「再建」ではなく「ねつ造」であるとの批判とともに、大手門や本丸の御殿、懸造(いわゆる「清水の舞台」)といった確実な史料が残る建物の復元には協力する、といった対案も示しました。最後は、当時の藤井黎仙台市長の決断によって、艮櫓の建設は中止。石垣も伝統的な工法に即して修築されました。

10年前のあの大地震では、仙台城の石垣も大きな被害を受けましたが、本丸石垣はほぼ無傷でした。そこから10年が経ち、仙台城大手門の復元に向けて正式に動き出しています。

高輪築堤に採用された石積の技術については、今後の調査が待たれますが、おそらくは仙台城のそれとも共通する部分もあるのではないかと推測しています。地震が宿命であるこの列島で確立された技術は、築城の終焉や西洋工法の普及で急速に失われており、高輪築堤は石垣の在来技術の到達点にして最大・最後の成果の一つなのかもしれない、と空想しています。

 すでに新聞数社でも主張されていますが、新型コロナウイルスで世界は変わりました。外国からの観光客を見こんだ高級ホテルや国際会議場に、どれほどの需要があるのでしょうか。無二の遺跡を拙速な開発で破壊する前に、もうすこしゆっくり考えてほしいと、私も心から思いますし、仙台城以上に、関係する史料は豊富にあるし、これを契機に見つかることでしょう。城郭を中心に全国に残る石垣を結んでいくような位置づけ方―石垣・日本の土木技術探訪へのゲートウェイ―のような、歴史を総合的に生かしたあの場所の「活用」の方が、長い目で見てJR東日本にも得策なのではないのか、とも思いますし、そのような「開発」ならば、歴史研究者もきっと協力することでしょう。 

 そういえば、日本最初の鉄道が出発した新橋駅は、かつて仙台藩の江戸屋敷(上屋敷)だった敷地に作られました。駅の遺構は保存され、現在は観光施設が復元されていますが、上屋敷の遺跡のほとんどは、再開発によって「記録保存」後に失われました。そこに建つ電通本社ビルが3000億円で売却を検討、という報道を見るにつけても、目先の再開発など一時の栄華に過ぎない、と思わざるを得ません。

電気機関車の並ぶ旧・東京機関区。高輪築堤が出土したのは写真の奥
(東海道本線の車中より 1985年3月頃 佐藤撮影)

 最後に、「日本最初の鉄道の遺構を、鉄道会社が壊す」ということは、一面では悲劇とも言えます。34年前の民営化と、その後の規制緩和による自動車偏重の日本の交通政策が、世界遺産級の遺構の破壊につながった、などとも考えてしまいます。
 高輪築堤のある場所は、少し前までは寝台特急「ブルートレイン」の基地でもありました。少年時代に胸をときめかせたそれらの列車は、高速バスや航空機との競争に敗れて姿を消しました。ヨーロッパのように鉄道自体への公共投資が進んでいれば、あるいは状況は違ったのかも知れません。地球温暖化対策が叫ばれる中、鉄道自体の社会的な意味も再考されて欲しいと願います。

“高輪築堤を見て、仙台城本丸石垣保存運動を思い出す” への2件の返信

  1. 佐藤大介様
    貴兄が、年季有る鉄っちゃんで有る事を知らず、失礼しました。昨晩送りましたものは、届きましたか?。高輪築堤は、危機にあり、当方保存会は、次の手を打つべく、調査を続行しております。
    又、仙台藩家臣録の事や、こずえがお話した「日嘉恵」の事や、それ以外の記録の事戻りあり、ご相談致したい事もあります。
    村上泉

    • 「古文書に記された鉄道の記録」探しは、なかなか難しいものです。史料の件は、承知いたしました。よろしくお願いいたします。

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