古文書の中の鉄道-幕末の仙台藩商人・皆川喜平治、アメリカ新大陸の鉄道を知る

 10月14日は「鉄道の日」です。旧暦の明治3年9月12日、西暦1872年10月14日に、東京・新橋と横浜の間に、日本で初めての鉄道が開業した日にちなんでいます。当時の新橋駅は、もとの仙台藩江戸屋敷の敷地に設置されました。この新橋駅はその後汐留貨物駅となり、物流の拠点となりました。ここから築地市場への支線もあり、三陸で取れた海産物も冷蔵貨物列車で運ばれていました。なにかと仙台・東北に縁のある場所でもあります。
 汐留貨物駅の廃止後、新橋駅、仙台藩邸の遺跡は、30年ほど前の再開発の中で発掘調査がなされ、当時の新橋駅の場所には、外観を復元した文化・観光施設が建っています。

 鉄道開業の様子については、当時数多くの錦絵が発行されました。例えば物流博物館の公式サイトで様々なものを見ることが出来るようです。これらは教科書にも掲載されていたので、ご記憶の方も多いかも知れません。宮城県内の旧家を調査すると、時折これらの絵が出てくることもあります。富裕層を中心に、東北の人々が早くから「文明開化」に触れていたことがうかがえます。

仙台の人で最初に鉄道に乗ったのは誰でしょうか。1860年(万延元年)に、日米修好通商条約の批准のために渡米した使節団の一行の一人であった、仙台藩士・玉虫左太夫(1823-69)でしょう。アメリカなどでの様子を記した「航米日録」には、閏3月6日(4月26日)のパナマ地峡の横断や、アメリカ西海岸のワシントン・フィラデルフィアの間で「蒸気車」で移動しています。「蒸気車」の描写や、「神速」などと、そのスピードに驚く描写も見られます。使節団の一向は、この年の9月27日(11月9日)に帰国しました。

それから一年四か月後、仙台藩領の磐井郡藤沢町の商家・丸吉皆川家の当主であった皆川喜平治は、文久2年(1862)3月半ば(旧暦)、自らの記録に、使節団のアメリカでの見聞を書き写していました。その中には鉄道のことが次のように記されています。

国中の道路、山坂などに至るまで、ことごとくみな鉄を敷きこれあり、蒸気車に乗り通用いたし候。石炭の燃える音、車輪の轟く音、あたかも雷声の如くにて、その早き事申す計りこれなし。路頭・樹木、ただ糯に(写し間違いか・佐藤注記)あい見ゆ。右蒸気車、途中にて往来差し合いの節に立ち到り候えば、やがて頭をよじり、通り違いそうろうなど、まことに自在なるもののよしなり。
(「丸吉皆川家日誌」個人蔵:原本は和様漢文、句読点は佐藤による。一部の漢字をかなにあらため、送り仮名を付した。)

国中に鉄路が張り巡らされ、そこを走る蒸気機関車の石炭の燃焼音や車輪が雷のような轟音を立てながら走る。例えようのないほど速い、とあります。これは、玉虫左太夫の感想と一致します。行き違いに支障があると「蒸気車が頭をよじる」というのは、単線の線路で、列車同士が駅などで行き違う様子を表したものでしょうか。

 皆川喜平治は、「御帰国使節団随行某」の話として、鉄道も含むアメリカの情報を記しています。日本国内で鉄道が開業する11年前に、仙台藩の庶民の中に、すでに鉄道のことを知る人がいたということになります。

 それでは、その情報は誰から入手したのか。「某」とは誰か。仙台藩、ということでは、玉虫左太夫が江戸なり仙台で誰かに語ったことが、間接的に伝わっていったという可能性もあります。皆川喜平治以外の仙台藩領の庶民の記録ではどうであったのか。他の地域の庶民の記録ではどうだったのでしょうか。写されたアメリカの情報は、一定の編集がなされたもののようにも見えますので、あるいは各地に流布したものなのかもしれません。古文書に記された鉄道の記録を追うことも、宿題としてみたいと思います。

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