8000両の難船 江戸時代の台風と海難事故(その2)

 仙台の城下町と領内に、洪水による大きな被害をもたらした天保6年閏7月7日の台風。「丸吉皆川家日誌」によれば、それから14日後の閏7月21日夜から22日(西暦1835年9月13日から14日)、磐井郡藤沢に再び嵐がやってきました。21日は曇りでときおり小雨、東北からの風が吹いて寒く、その夜から嵐に。7日はやや弱く、午後2時頃には晴れ、西風にかわった、とあります。

 8月2日(9月23日)、磐井郡藤沢の商家・丸吉皆川家に、「最上」(現:山形県村山地方)からの飛脚が届きます。丸吉皆川家が仲間とともに出荷した紅花19丸(4丸=1駄=約32㎏/約152㎏)を積んだ「北国」(北陸地方/現在の福井県、石川県、富山県、新潟県)の船が、秋田の船川(秋田県男鹿市船川港)付近で難船した、という知らせが、酒田(山形県酒田市)の船問屋を通じてもたらされました。この船には、丸吉皆川家の荷物も含めて紅花387丸(約3.1トン)、生糸40箇(1箇=9貫目=33.75㎏/約1.35トン)、合わせて金8000両(1両=約16万円換算で約12億8000万円)もの積み荷があったということです。
 丸吉皆川家には、現場を見に行った者が8月23日(10月14日)付けで酒田から出した書状も到着。紅花108丸(約864㎏)を積んだ別の船も難船したとのことでした。

 紅花と生糸は、丸吉皆川家が拠点を置く仙台藩の北部「東山」(旧:東磐井郡、現在はすべて岩手県一関市の範囲)の特産物でした。丸吉皆川家や藤沢の商人は、これらを酒田経由で京都に移出して大きな利益を挙げていました。推定の被害金額からもそのことがうかがえます。その一方、他の地域との結びつきによって生業を営むことは、日本列島各地で起こる台風その他の天変地異が、地元に直接被害を及ぼさずとも、決して「人ごと」ではないという状況を生み出してもいました。丸吉皆川家は、この事故でもさほど大きな影響は受けなかったようですが、紅花の産地だった仙台藩領、最上地方の紅花商人の中には、大きな影響を受けた家もあったかも知れません。

 また、8月23日の酒田からの知らせには、北国にも二度の嵐がおそい、凶作となって人々が難渋したこと、それに対し「御上」から米の払い下げがなされた、とあります。


 一連の記事は、丸吉皆川家が紅花の産地である最上地方や、日本海側の重要な港で会った酒田に情報網を持っていたこと。また、2度にわたって被害をもたらした台風の進路を知る手がかりともなります。大坂や蝦夷地など、北国の米が多数運ばれていた地域は、この台風でどのような影響を受けたのでしょうか。気になるところです。

(参考)
・紅花の計量単位「丸」のキロ換算 「紅花」会田雄次ほか監修『江戸時代 人づくり風土記 近世日本の地域づくり200のテーマ』農文教 2000年
・糸の計量単位「箇」(梱こり)のキロ換算について 飯田朝子ほか編『数え方の辞典』小学館 2004年
・江戸時代の金の単位「両」の現在の価格への換算の参考 山本博文『江戸の銭勘定~庶民と武士のお金のはなし (歴史新書)』洋泉社 2017年

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください