灰色の巨壁に思う―石巻市雄勝町名振にて

12月2日、葉山神社へ古文書を返却した日の午後、石巻市雄勝町名振を訪ねました。2000年夏に古文書調査で初めて訪問した、当時の雄勝町の、海沿いの集落の一つです。

石巻市雄勝町も含めた宮城県の三陸沿岸では、津波で被災した集落の高台移転が進む一方、巨大な防潮堤が建設されつつあります。雄勝町では、あれから9年9か月が経った現在も工事が続き、関係車両がひっきりなしに行き来する状況でした。雄勝町に足を運んだ機会に、長年通った集落の現状を確認しておくことにしました。

以前は、高台にある道路から集落全体を見渡すことができたのですが、いまは木々が生い茂って撮影することが出来ません。あきらめて集落のあった海辺に向かうと、巨大な防潮堤が目に入ってきました。車を止めて、古文書調査の当時からある、海側に突き出た防波堤の先端まで歩いて、そこから振り返って、スマートフォンのパノラマ機能を使って撮影したのが、この写真です。

【写真2】石巻市雄勝町名振 2020年12月2日 撮影:佐藤大介

灰色の巨壁、という以外に形容しようのない風景が、そこには広がっていました。

折しも、海には漁をしているらしい地元の方の船が見えました。毎日この風景に向き合っているのだろう地元の漁師さんたちは、どのように受け止めているのでしょうか。比較のため、以前に投稿した、2002年にほぼ同じ場所から撮影した写真も改めて掲載することにします。

【写真2】雄勝町名振 2002年2月21日 撮影:佐藤大介(2枚の写真を1枚に加工している)

 もちろん、集落が高台移転に至った経緯や、個人的な印象をいえば過剰防衛にしか見えない巨大な防潮堤がなぜ出来てしまったのか、、報道されている以上のことを知り得ていません。報道されない(出来ない)様々な立場からの意見・主張を知った上でないと、今は何も言えない、とも考えます。

【写真3】海岸線沿いの防潮堤
2020年12月2日

  ただ、「なぜこうなったのか」ということについて、今からでも記録が作成され、いつの日かきちんと検証できるような形で継承されていく必要がある、ということだけは強く主張したいところです。

あるいは、今後の私自身の活動の中で、それらのことに関係する記録に「歴史資料」として出会うこともあるかもしれません。その保存には十分に心がけていきたいと感じます。

人は明らかに出来ないことを抱え続け、長い時を経て、何かのきっかけで公表することがある(あるいは、遂に明かさずにこの世を去る)ということを、75年を過ぎたあの戦争の記憶の継承をめぐる状況はよく物語っています(例えば、被爆の経験をめぐるこの記事)。その時々に「役に立つ教訓」だけを求めるのでは、残らない・残せない記憶と歴史があるのです。

【写真5】1958年頃の名振浜と松の木
(部分、『宮城県史』26,1958年所収)

ところで防潮堤は、3本のマツの大木を避けるように作られていました。私がこのマツの木々に出会ったのも20年前の調査をきっかけにしたことです。このマツは、今から62年前の1958年(昭和33)3月に刊行された『宮城県史』26巻の口絵「名振浜」の写真でも、すでに立派な枝振りのマツとして写っています。おそらく、100年以上のの樹齢があるのでしょう。『宮城県史』が刊行された直後の1960年(昭和35)チリ地震津波にも耐え、9年9が月前のあの大津波にも耐えたのです。

【写真4】松の木と、それを避けるように
建てられた防潮堤の様子
(2020年12月2日 佐藤大介撮影)

それ以前の面影がほとんどなくなってしまった集落で、このマツが残っていることに、集落の歴史や記憶を継承しようとする意志を感じられ、救われる思いがしました。

帰路、少し高台の道路から見ると、穏やかな蒼い海が広がっていました。私も含めた外部からの古文書調査の参加者を魅了した、リアス式海岸と小島が織りなす北上川河口の美しい風景がそこにありました。

【写真6】高台の道路から臨む名振湾・北上川河口(2020年12月2日 佐藤大介撮影)

“灰色の巨壁に思う―石巻市雄勝町名振にて” への4件の返信

  1. 昭和34年チリ地震津波から一年後に私は、生まれました。
    縁あってこの地に2歳か3歳の時に雄勝町名振にやって来ました。
    自然の豊かな漁村で、家の前は直ぐ海で釣りや海水浴、又、潮が引くと広い砂浜が現れ野球をしたものでした。
    家から見られた海がなぜこの様なベルリンの壁が出来たのでしょうか?必要か?あの綺麗な風景を返して頂きたい。
    人が住まないのに必要ですか?
    無駄な投資です。国は何を考えているのですか?
    別な投資の使い方があるのでは?
    実家も無くなってしまった今、せめてあの綺麗な風景を残して頂きたかった。

  2. 昭和34年チリ地震津波から一年後に私は、生まれました。
    縁あってこの地に2歳か3歳の時に雄勝町名振にやって来ました。
    自然の豊かな漁村で、家の前は直ぐ海で釣りや海水浴、又、潮が引くと広い砂浜が現れ野球をしたものでした。
    家から見られた海がなぜこの様なベルリンの壁が出来たのでしょうか?必要か?あの綺麗な風景を返して頂きたい。
    人が住まないのに必要ですか?
    無駄な投資です。国は何を考えているのですか?
    別な投資の使い方があるのでは?
    実家も無くなってしまった今、せめてあの綺麗な風景を残して頂きたかった。

  3. 昭和35年チリ地震津波に私は、生まれました。
    縁あってこの地に2歳か3歳の時に雄勝町名振にやって来ました。
    自然の豊かな漁村で、家の前は直ぐ海で釣りや海水浴、又、潮が引くと広い砂浜が現れ野球をしたものでした。
    家から見られた海がなぜこの様なベルリンの壁が出来たのでしょうか?必要か?あの綺麗な風景を返して頂きたい。
    人が住まないのに必要ですか?
    無駄な投資です。国は何を考えているのですか?
    別な投資の使い方があるのでは?
    実家も無くなってしまった今、せめてあの綺麗な風景を残して頂きたかった。

    • 濱田様 コメントありがとうございます。また、コメント承認・ご返信遅れまして申し訳ございません。

      作った側の言い分としては、「その場所に住み続けたいという住民の希望に対応して」ということのようです。ただ、高台移転した集落に、あそこまでのものが果たして必要だったのか、私も個人的に強く感じるところです。濱田様もきっとご記憶にあるのであろう、浜沿いの松の木3本は残ったことに、わずかな良心を見いだしてはいるのですが…。

      名振での思い出について、興味深く拝見しました。『宮城県史』に所収されている昭和20年代の写真では、護岸もされていないことはうかがえましたが、子供たちの遊び場だったのですね。そのことも、貴重な記憶として、将来のために、とどめておきたいものです。当方、調査に通っていた当時は古文書のことばかりで、「その時の名振」のことには思いが至りませんでした。なのでその時の風景写真をあまり持ち合わせていないのですが、2003年に「おめつき」を訪問した際の写真が手元にあります。折を見て、ここに投稿したいと考えております。引き続きよろしくお願い申し上げます。

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