東京大空襲77年

 ロシアのウクライナへの蛮行から2週間。今日は子供病院が爆撃され多くの死者が出ている模様との報道。改めて即時停戦と撤退を求めます。

 1945年3月10日の東京大空襲から77年目は、ネットに分刻みで投稿される彼の地の様子、スマートフォンと戦場は直結しているともいえるような状況のなかとなりました。あの空襲の体験者は、やはりウクライナの状況と自らの体験を重ね合わせ、改めて戦争の非を訴えているようです。

「今、ウクライナで同じことが起こっている。本当に悔しい」

https://www.buzzfeed.com/jp/sumirekotomita/tokyo-bombing-77years?utm_source=dynamic&utm_campaign=bfsharecopy&sub=0_128885479#128885479

 私はこのところ、当時の浅草田中町の自宅に焼夷弾が直撃。防空壕から上野の山に逃げたという祖父母一家のことを想起します。

 地名など断片的なことしかわからなかったことが、よりはっきりした像を結ぶようになったのは、2016年3月10日、たまたま出張で東京に出かけていた際に立ち寄った、浅草公会堂での市民団体による展示でした。空襲で焼失した範囲の地図で浅草田中町の場所を探すと、東京の下町を南西から北東にかけて焦土にした空襲の、西の縁にありました。ここであれば、西にある上野の山に逃げることは、猛火のただ中にあった地域よりは可能性が高かっただろう、と考えることができるようになりました。記録によってより実感をもって想像出来るようになった、といえるでしょうか。

 高齢化で体験者が減少していく中で、遺品として手紙その他の記録が見つかることも多いと聞きました。それらを残そうとすることを「公」として行うのかどうか、「歴史に学ぶ」を単なるお題目としてではなく、社会的意志を持っているのかどうかの指標となると考えます。

その展示で学んだことがもう一つあって、当時の浅草区の小学生の集団疎開先が、私が今暮らす宮城県と、故郷の福島県だったということです。上記の展示では疎開先の地図も展示されていて、著名な温泉地が多かったようです。収容人数の関係でしょう。また浅草区ではなかったと思いますが、宮城県村田町の「やましょう記念館」となった商家でも、東京からの疎開児童を受け入れていたということを、同家のご当主(故人)からうかがったこともあります。関係する史料はみあたらなかったのですが…。今後の調査活動で、関連する史料を見いだす可能性はあるでしょうから、注意してみていきます。

 現在の状況の悲惨さは、映像や見れば一目瞭然です。一方で、77年前の自国も同じような経験をしていたということを知ることで、いまの彼国の人々の痛苦を、より一層我がこととしてとらえ、寄り添うことにつながっていくのかもしれません。
 一方で、77年前に我が国の市民が経験した悲惨は、当時の政府と軍隊が「加害者」となったことの帰結でもありました。3月10日、6月23日、7月10日、8月6日・9日・・・77年前のような経験を二度としないため、そこに至るまでの自国の歴史を多面的に学んでおくことが重要でしょう。

 改めて、77年前に亡くなられた10万人の犠牲者の方々の御冥福をお祈り申しあげます。そして、彼の地で苦しむ人々、あのようなことが繰り返されないよう懸命に活動している、世界各国の関係者や市民をお守りください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください